またやっちまった(>_<)&本からの便り
“リアルタイムでわくわくした”これが大きいヤマトという艦(ふね)ですが、私がアニメそのものから少しずつ興味が逸れ始めたのも、現在のコミックの絵柄の変化と、3Dの普及と無縁じゃないような気がします。
わたし、個人的には3D-CGってむしろ実写との方が相性が良いような気がしてんですよね。
設定画とか線画見て、非常にわくわくし、あの、甘酸っぱいような切ないような気分になっていたのもつかの間。実際に予告動画とかで動いてみると、ちょっとう~む。それっておそらく多くのファンの人々と、逆!? かなぁとか。仕方ないけど。音楽も変えて欲しかった。肝のところ、アレを使うのはいいと思うし、予告動画の使い方に文句はないですが、全編アレだったら笑うぞ。
とまぁテレビもないので、事前の特番とかも見られないですからね。
悔しい分、頭の中がそっちに行かないようになっているのかもしれないです。
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表題の「やっちまった」のは、また、郵便を持ったまま、二日間ポストに入れられなかったことです。
なぁんで、わざわざポストのある道を通ってるのに、しかもバッグの一番目立つところにさして歩いてるのに、電車に乗るまで思い出さないんでしょう!? いったい何考えて道、歩いてるんでしょうね?
歩く、出かける、通う、ということはけっこう無意識のうちにいろいろなことを考えている行為だと、私は思います。ここ10年ほど、その“気の遣い方”の意識レベルが、社会全体として下がっているように思う。たとえば避ける能力がないとか、人と接する・すれ違う時の様とか。社会性や躾の問題が大きいですが、もう一つには訓練されない身体能力という部分もある。あと、互いの距離の取り方が、現実とバーチャルの区別の曖昧さを持ったまま、大人になる子ども、いやもうオトナになってるでしょうね、そういう世代が。われわれはその走りの世代ですから。
だから、危険極まりないことが、ちょっと体調が悪いとか、特殊な状況で歩いている時に、ひどく怖く感じることがあります。
だから、街を歩いている時は、よほど精神状態が悪い(エネルギー値が低下しているというか)時以外は、かなり神経をめぐらしていることが多いのです。だから、何か「だけ」を考えてやみくもに15分なりを歩きとおすことができない。本当は本当に「散歩」して、何も考えない状態をいっぱい作らないと神経が休まらないんじゃないか、、、そうも思いますね。頭が休んでるのって、PCに向かってゲームしてるときか(笑)、本を読んでる時くらいなんじゃかろうか。寝てるときは別として。
図書館の「本の紹介」には出しませんでしたが、最近、有川浩さんの『レインツリーの国』を読みました。かのベストセラー『図書館戦争』シリーズ第二巻、『図書館内乱』の中に出てくる、架空の本です。その本を、有川さんはご自分で執筆されたわけでして、その表紙がまた、実際に『~内乱』のイラストの中にも出てくる、という二重のオアソビが出版社間で行われた、という、なかなか画期的な本です。
この二つの本とエピソードは、真向から聴覚障害者に向き合った恋愛もの、というのかな。その話です。
道を歩いていたり、電車に乗ったりすると日々思います。特に私のように、通勤時間がある程度フレックスだったりすると、街のいろいろな顔を見ることになる。健常者として気づかない、危険なことがたくさんあるに違いないと思うこともあるんですよね、想像ですが。というのは、この本を読むとより一層、明らかになる気がしました。想像はしていても、想像できない、つまり「ズレ」るんですよね。ただ、コミュニケーションというのは、そのズレを互いに認識していくところが第一歩なんじゃないかなと思う。
たまたまここ1年ほど、視覚障害を持たれた某著名なアーティストさんと、仕事で身近に接することが増えています。もちろん視覚と聴覚では、まったく状況は異なるでしょうし、彼の場合は身近にサポートしている方がおられ、愛情や相性という絆もあって、ご本人いわく「一日23時間くらい一緒にいる」(byご本人著作)というラブラブぶりなので(笑)、その意味では不自由はないと思いますが、それでも接する時に、ちょっとしたところで気をつけなくてはならなかったんだな、と気づいてはっとしたり、気を遣いすぎてもいけないと反省したりの繰り返し。
思うに、そういう方が社会人として、人並み以上に活躍しておられて、比較的手の届くところにおられるというのは、いろいろな意味で目を開かせられる部分があるように思います。
とまぁ、また本の話になっちゃいましたけどね(^_^;)。今日はお休みです。仕事しなあかんねんけどなぁ、、昼寝すっか。