「ヤマト」は死んだ。
タイトルがちょいと過激ですが、、、「テーマ分類」は「ひとりごとのようなもの」です。
私見で、ワタクシゴトです。
ヤマトのファンの方々や、これまでワタクシと、(ネット上でも)親しくさせていただいた方々にも、不愉快な思いをされる方がいらっしゃるかもしれません。
ですので、そういう場合は、読まずに、スルーしてくださいな。
ということで、本文は[続きを読む]から、書いておくことにします。
前提として。
この1文は、Crew CAFEで見たその日に去来したものです。
内容の善し悪しを語る以前の部分で、視聴した直後の「感想」でした。
それで出来たのが、「甘いお題20.」ではありましたが、、、
いっせいに皆さんが見られる映像ではなかっただけに
感想が出揃うか、上映が終わるかするまで待とうと思っていたものです。
知己の方々とはいろいろすでに話もしましたし
ほとんどの方とは意見を異にしております。
サイトを閉じようか、、、ヤマトから去ろうか。真剣に考えたりもしましたが、
必然、「それはそれ、これはこれ」。リメイク版「2199」の存在が私を引き止めました。
それでも1か月。
友人たち(と敢えて呼びましょうか)とも、
それで「さようなら」ということはないと確信しています。
◆ ◆ ◆
私見で、ワタクシゴトです。
ヤマトのファンの方々や、これまでワタクシと、(ネット上でも)親しくさせていただいた方々にも、不愉快な思いをされる方がいらっしゃるかもしれません。
ですので、そういう場合は、読まずに、スルーしてくださいな。
ということで、本文は[続きを読む]から、書いておくことにします。
前提として。
この1文は、Crew CAFEで見たその日に去来したものです。
内容の善し悪しを語る以前の部分で、視聴した直後の「感想」でした。
それで出来たのが、「甘いお題20.」ではありましたが、、、
いっせいに皆さんが見られる映像ではなかっただけに
感想が出揃うか、上映が終わるかするまで待とうと思っていたものです。
知己の方々とはいろいろすでに話もしましたし
ほとんどの方とは意見を異にしております。
サイトを閉じようか、、、ヤマトから去ろうか。真剣に考えたりもしましたが、
必然、「それはそれ、これはこれ」。リメイク版「2199」の存在が私を引き止めました。
それでも1か月。
友人たち(と敢えて呼びましょうか)とも、
それで「さようなら」ということはないと確信しています。
◆ ◆ ◆
以下、書くのはあくまで【私の感想/気持ち/考え方】であって、勝手にわめいているだけです。
共感したり意見を言ってほしくもありませんし、実際「放っておいてください」という心境なのです。
ヤマトという作品は、存在そのものが自分を傷つけた。多くのものも呉れたけども、多くの犠牲も払った。そんな作品でしたが、それを超えた大きな世界を持ち、私を引き付けてきた。。。はずでした。
ですが、何度目だかはわかりません。ともかく「傷ついた」のは確かです。
あまりの理不尽と傲慢に(<と、私は感じたのですから仕方ないですよねぇ)。
1.やり直し♪
作品に「やり直し」というものは【無い!】と、私は言い&書き。その気持ちはいまでも変わりません。「ヤマト」が、「スターシャ死亡版」や「さらば」「ヤマト2」のパラレルがあるからといって、今回のこれはまた別の話です。(なぜ「別」かは後述します)。
「ディレクターズカット版」というのは、米国などから始まって、現在の映画界では当然になっている販売方法だと思います。でも、作品が放映され、それがDVDなどになるときに、特別仕様として、カットシーンやスピンアウトを入れた版を作る。それが「ディレクターズカット版」であろうと思うのですよ。
けっして、
本編を上書きして、無かったことにする
ためのものではないんじゃないんですか?
別だというのは、「並存できないから」です。完全なる「上書き」であり、「復活篇」そのものの否定です。
映画館で上演した。上映会を行い、「これが本当のヤマトだ」と言う。……それのどこが、「N崎さんの意志を継ぐ」んでしょう? これによって、『宇宙戦艦ヤマト復活篇』は無かったことになり、上書きされて、消えてしまおうとしているのです(すでに「09版」とか言われてますよね)。
「結論を、本当はあれにしたくなかった」
確かにそうおっしゃったのかもしれない。
しかし、最終的に決断して、選んで、あちらを作ったのは彼自身だった。
さらには、追加された数々のシーン……すべて、「ファンが不満に思い、もともとは予定されていたはずの」説明カットばかりじゃないです?
それによって、「よりわかりやすくなった」。だから初めてこの作品を見た人にとっては、わかりやすい話になったんでしょうね、だから「すっと入ってきた」のでしょう。
わかりやすくする
ことで失われるのは、作品の「質」です。
物語を、フラットにしないこと。緩急・尺・リズムというものがある。それを「説明」はぶち壊してしまいます。しかも、意外に思うシーンはなく、それぞれの付け足した部分は明らかに筆致が違う。絵が、でもなんでもなく、濃度が違うんです。
二つだけ、「入ってよかった」と思ったシーンはありましたが。
私自身は、「どこが違う」「どこが増えて」良くなった、そうでなくなった。
こんなことを比べることには、まったく興味がありませんし、意味も感じません。……ただ、見ればわかりますよね、一度。
違和感があった場所。
そのときは、ちょっと嬉しかったけど、あとで考えて「全体の位置づけの中でそこがどうよ?」…それが、不思議でした。
冗長な部分をカットしたのは唯一の良かった部分のような気がします。これはオペラの初演などでもあることですから。初演が3時間半、それを音楽祭に持っていくために3時間弱にカットすることで、良いアリアはあるけれども全体の中で話が収斂しない部分はカットする。。。それはいいかもしれませんが、必要な部分をカットしたらいかんがな。
2.何故だめか
ヤマト、強すぎます。
これは「復活篇」の時も、笑えるくらいそうでしたから、今回はちょっとぼろぼろになってみました。(笑)
お笑いの自乗ですか? 第三艦橋の補強、というのは一つの変化としてフィーチャーされてましたから、それが守られていたのは良かった(くすっと、これも笑えましたけど)ですけれど。
コダイ、強すぎます。
誰かへのメールにも書いたかもしれません。
今回、周りにいらっしゃる古代進ファンの方々は、ほとんどがこの作品に肯定的です。……思えば当たり前で、この古代進は、『復活篇』本編に比べて、かっこいいんです。迷わず、意見を聞き、適切な判断を下し、そうして家庭がうまくいっていないようにも見えない。
少し説明を加え、せりふの位置を足し引きし……それだけで、これだけ印象が変わるんですね。
だから、雪に語りかけるシーンでも、本心悩んでいるようには見えない。
とても“立派”です。さすがは艦隊司令官。ぱちぱち。
……でも、これってヤバくないですか? 一歩間違えば、これまでの「ヤマトの古代」の全否定です。
私の知っていた古代ってそういう男じゃなかったはずだったけどな。。。とこれを言うと、単なる個人的意見になってしまうんでしょうか。
その方のメールへ書いた文言は、「男の人たちが、自分がなってほしい主人公の姿に彼を変えた」と書いたんですな。
本来、M本R士さんがベースを作った彼のキャラクターは、他の台場やハーロックと同じ、叩かれて情けなくてだが底から這い上がって勝利をつかむ男。負けることの辛さを知っている迷える男だったはずで、それが古代進というひとの魅力だったように思います。
N崎さんにせよ、「ブルーノア」や、最後に正義と悪が逆転してしまう「海のトリトン」で、同様なものを描いていると思うんですが。
敵が、たいしたことなくなっちゃったな
SUSが、ちゃらい。
何故だと思います?
本来ヤマトでは、敵というのを強大な、存在感のあるものとして、設定の労力を大きく注いできた物語だと思います。そうして、そこには必ず、「敵のテーマ」「固有の音楽」というものが存在する。
ガミラスしかり、白色彗星しかり、ディンギルだってそうで、それぞれその音楽というのは素晴らしいものでした。
さていよいよここで音楽の話だ(笑)。
「復活篇」が作られたとき、すでにその手法は取れなかった。
そこで登場したのが、「クラシック音楽の中から曲を選び、それを生演奏で録音して使う」ということでした。
最初の五砲が現れたときの、ベートーヴェンの「皇帝」と、戦いに入った時の、グリーグのピアノ協奏曲は、敵の強大さと性質を、音の面から十分現していたと思いますし、それをY山Y雄のピアノと某オーケストラ&O友さんは、きちんと表現していた。
プロデューサーも、その音と絵を合わせて、あのシーンを作ったのです。だから、わたし個人としては、元のものの迫力を、ヤマトの音楽に挿げ替えた段階で、それは「別のもの」になってしまった。
そのとき、チェックしなが見ていたというわけではないんすよ。
「復活篇」を見た時の衝撃も、心身のアップダウンも、DC版には感じられず、ただ楽しく、気楽に見通すことができた。それだけです。
3.音楽の変更について
これだけは私見でもないでしょうね、周りの何人かで賛同いただいた方も少なくありません。
ヤマトの音楽を使えばいいのか!?
誰だこんなこと考えたのは。
まじでこれは怒り心頭でした。→音楽については長く(深く?)なりますので、項目を別にいたしましょう。
4.あまりにも“ファン向け”である
説明は不要。
ディレクターズカット版、というのは本来、DVDなどに同梱されりゃいいものだと私は思っています。ですが上映された。それならロードショー全国展開でやるべきで、果たしてどれだけの人が見たんでしょう?
観なかった人にとっては、『復活篇』がヤマトの本編です。“特典”て違う話見せちゃうわけ?
しかし、なんだか、皆の意識の中では(作り手側すらも)、「本編は上書きされている」んじゃないの。
摩訶不思議です。
さてその作品というんものは、誰に見せたくて、どのように作られていくつもりなのでしょうか。(6.に続きます)
◆ ◆
オトナのヤマトファンの皆さんたちは、とても純粋だなと思います。
しみじみ、純粋です。
何があっても、好意的な解釈を作り、その裏にあったものを斟酌し、相手を否定せず受け入れる。それはヤマトのある部分ともシンクロします。
ただ、それはある種の身勝手ともいえますね。
本編標榜。
行われたものが本編。
そう考え続けてきましたが、さすがにこれはどうでしょうね>自分。
認める・認めないではなく、私は単なる1ファンですから、「さようなら」すればいいことなのではないのでしょうか。そう思います。
だからといって、語ったり、見たり、書いたり、話したり。それを我慢したり無理やり封印したりする必要もないでしょう。「そこまでは確かにヤマト」だったんですから。たとえどんな姿になってもね。
あとで「音楽」の項目で、「全体像」に触れられればとも思いますが、「つぎはぎ」「解説」の最もよろしくないと思うのは、「作品の持つ、透徹した一本の筋・背骨/視点」を失ってしまうことです。
それを“作品”とは呼べない。
最初からあれを見て、「すっと入ってきた」「ヤマトってかっこいいね」そういうご家族や子どもさんが居たとする。…それはありえるだろうし、別に悪かないんじゃない? しかし、これ、「古臭い普通のアニメ」ですね。ヤマトである必然がどっかあるか。
苦しいことや、彼らの抱えてきた傷。それを見ない、想像させられない、忘れていく。…それって「ヤマト2」の時の地球と一緒だなぁ。……まぁもういいですけど(笑)。
ということで、もう1項目、「音楽について」だけ追記したいので書きます。 (2012.2/3 記)
共感したり意見を言ってほしくもありませんし、実際「放っておいてください」という心境なのです。
ヤマトという作品は、存在そのものが自分を傷つけた。多くのものも呉れたけども、多くの犠牲も払った。そんな作品でしたが、それを超えた大きな世界を持ち、私を引き付けてきた。。。はずでした。
ですが、何度目だかはわかりません。ともかく「傷ついた」のは確かです。
あまりの理不尽と傲慢に(<と、私は感じたのですから仕方ないですよねぇ)。
1.やり直し♪
作品に「やり直し」というものは【無い!】と、私は言い&書き。その気持ちはいまでも変わりません。「ヤマト」が、「スターシャ死亡版」や「さらば」「ヤマト2」のパラレルがあるからといって、今回のこれはまた別の話です。(なぜ「別」かは後述します)。
「ディレクターズカット版」というのは、米国などから始まって、現在の映画界では当然になっている販売方法だと思います。でも、作品が放映され、それがDVDなどになるときに、特別仕様として、カットシーンやスピンアウトを入れた版を作る。それが「ディレクターズカット版」であろうと思うのですよ。
けっして、
本編を上書きして、無かったことにする
ためのものではないんじゃないんですか?
別だというのは、「並存できないから」です。完全なる「上書き」であり、「復活篇」そのものの否定です。
映画館で上演した。上映会を行い、「これが本当のヤマトだ」と言う。……それのどこが、「N崎さんの意志を継ぐ」んでしょう? これによって、『宇宙戦艦ヤマト復活篇』は無かったことになり、上書きされて、消えてしまおうとしているのです(すでに「09版」とか言われてますよね)。
「結論を、本当はあれにしたくなかった」
確かにそうおっしゃったのかもしれない。
しかし、最終的に決断して、選んで、あちらを作ったのは彼自身だった。
さらには、追加された数々のシーン……すべて、「ファンが不満に思い、もともとは予定されていたはずの」説明カットばかりじゃないです?
それによって、「よりわかりやすくなった」。だから初めてこの作品を見た人にとっては、わかりやすい話になったんでしょうね、だから「すっと入ってきた」のでしょう。
わかりやすくする
ことで失われるのは、作品の「質」です。
物語を、フラットにしないこと。緩急・尺・リズムというものがある。それを「説明」はぶち壊してしまいます。しかも、意外に思うシーンはなく、それぞれの付け足した部分は明らかに筆致が違う。絵が、でもなんでもなく、濃度が違うんです。
二つだけ、「入ってよかった」と思ったシーンはありましたが。
私自身は、「どこが違う」「どこが増えて」良くなった、そうでなくなった。
こんなことを比べることには、まったく興味がありませんし、意味も感じません。……ただ、見ればわかりますよね、一度。
違和感があった場所。
そのときは、ちょっと嬉しかったけど、あとで考えて「全体の位置づけの中でそこがどうよ?」…それが、不思議でした。
冗長な部分をカットしたのは唯一の良かった部分のような気がします。これはオペラの初演などでもあることですから。初演が3時間半、それを音楽祭に持っていくために3時間弱にカットすることで、良いアリアはあるけれども全体の中で話が収斂しない部分はカットする。。。それはいいかもしれませんが、必要な部分をカットしたらいかんがな。
2.何故だめか
ヤマト、強すぎます。
これは「復活篇」の時も、笑えるくらいそうでしたから、今回はちょっとぼろぼろになってみました。(笑)
お笑いの自乗ですか? 第三艦橋の補強、というのは一つの変化としてフィーチャーされてましたから、それが守られていたのは良かった(くすっと、これも笑えましたけど)ですけれど。
コダイ、強すぎます。
誰かへのメールにも書いたかもしれません。
今回、周りにいらっしゃる古代進ファンの方々は、ほとんどがこの作品に肯定的です。……思えば当たり前で、この古代進は、『復活篇』本編に比べて、かっこいいんです。迷わず、意見を聞き、適切な判断を下し、そうして家庭がうまくいっていないようにも見えない。
少し説明を加え、せりふの位置を足し引きし……それだけで、これだけ印象が変わるんですね。
だから、雪に語りかけるシーンでも、本心悩んでいるようには見えない。
とても“立派”です。さすがは艦隊司令官。ぱちぱち。
……でも、これってヤバくないですか? 一歩間違えば、これまでの「ヤマトの古代」の全否定です。
私の知っていた古代ってそういう男じゃなかったはずだったけどな。。。とこれを言うと、単なる個人的意見になってしまうんでしょうか。
その方のメールへ書いた文言は、「男の人たちが、自分がなってほしい主人公の姿に彼を変えた」と書いたんですな。
本来、M本R士さんがベースを作った彼のキャラクターは、他の台場やハーロックと同じ、叩かれて情けなくてだが底から這い上がって勝利をつかむ男。負けることの辛さを知っている迷える男だったはずで、それが古代進というひとの魅力だったように思います。
N崎さんにせよ、「ブルーノア」や、最後に正義と悪が逆転してしまう「海のトリトン」で、同様なものを描いていると思うんですが。
敵が、たいしたことなくなっちゃったな
SUSが、ちゃらい。
何故だと思います?
本来ヤマトでは、敵というのを強大な、存在感のあるものとして、設定の労力を大きく注いできた物語だと思います。そうして、そこには必ず、「敵のテーマ」「固有の音楽」というものが存在する。
ガミラスしかり、白色彗星しかり、ディンギルだってそうで、それぞれその音楽というのは素晴らしいものでした。
さていよいよここで音楽の話だ(笑)。
「復活篇」が作られたとき、すでにその手法は取れなかった。
そこで登場したのが、「クラシック音楽の中から曲を選び、それを生演奏で録音して使う」ということでした。
最初の五砲が現れたときの、ベートーヴェンの「皇帝」と、戦いに入った時の、グリーグのピアノ協奏曲は、敵の強大さと性質を、音の面から十分現していたと思いますし、それをY山Y雄のピアノと某オーケストラ&O友さんは、きちんと表現していた。
プロデューサーも、その音と絵を合わせて、あのシーンを作ったのです。だから、わたし個人としては、元のものの迫力を、ヤマトの音楽に挿げ替えた段階で、それは「別のもの」になってしまった。
そのとき、チェックしなが見ていたというわけではないんすよ。
「復活篇」を見た時の衝撃も、心身のアップダウンも、DC版には感じられず、ただ楽しく、気楽に見通すことができた。それだけです。
3.音楽の変更について
これだけは私見でもないでしょうね、周りの何人かで賛同いただいた方も少なくありません。
ヤマトの音楽を使えばいいのか!?
誰だこんなこと考えたのは。
まじでこれは怒り心頭でした。→音楽については長く(深く?)なりますので、項目を別にいたしましょう。
4.あまりにも“ファン向け”である
説明は不要。
ディレクターズカット版、というのは本来、DVDなどに同梱されりゃいいものだと私は思っています。ですが上映された。それならロードショー全国展開でやるべきで、果たしてどれだけの人が見たんでしょう?
観なかった人にとっては、『復活篇』がヤマトの本編です。“特典”て違う話見せちゃうわけ?
しかし、なんだか、皆の意識の中では(作り手側すらも)、「本編は上書きされている」んじゃないの。
摩訶不思議です。
さてその作品というんものは、誰に見せたくて、どのように作られていくつもりなのでしょうか。(6.に続きます)
◆ ◆
オトナのヤマトファンの皆さんたちは、とても純粋だなと思います。
しみじみ、純粋です。
何があっても、好意的な解釈を作り、その裏にあったものを斟酌し、相手を否定せず受け入れる。それはヤマトのある部分ともシンクロします。
ただ、それはある種の身勝手ともいえますね。
本編標榜。
行われたものが本編。
そう考え続けてきましたが、さすがにこれはどうでしょうね>自分。
認める・認めないではなく、私は単なる1ファンですから、「さようなら」すればいいことなのではないのでしょうか。そう思います。
だからといって、語ったり、見たり、書いたり、話したり。それを我慢したり無理やり封印したりする必要もないでしょう。「そこまでは確かにヤマト」だったんですから。たとえどんな姿になってもね。
あとで「音楽」の項目で、「全体像」に触れられればとも思いますが、「つぎはぎ」「解説」の最もよろしくないと思うのは、「作品の持つ、透徹した一本の筋・背骨/視点」を失ってしまうことです。
それを“作品”とは呼べない。
最初からあれを見て、「すっと入ってきた」「ヤマトってかっこいいね」そういうご家族や子どもさんが居たとする。…それはありえるだろうし、別に悪かないんじゃない? しかし、これ、「古臭い普通のアニメ」ですね。ヤマトである必然がどっかあるか。
苦しいことや、彼らの抱えてきた傷。それを見ない、想像させられない、忘れていく。…それって「ヤマト2」の時の地球と一緒だなぁ。……まぁもういいですけど(笑)。
ということで、もう1項目、「音楽について」だけ追記したいので書きます。 (2012.2/3 記)