「ヤマトの音楽」のこと。
タイトルは「ヤマトの音楽」ですが、平和な話ではないので(笑)、これも、不愉快な思いをしたくない方は、スルーしてください。
私だけそう思ってたかなーと思いましたが、回り親しい人何人かと話をしたら、みぃんなそうだった。
最近、(選挙なんかでもそうなんだけどさ)周りの人たちと「そうだよねーそうだよねー」と納得しあって、どう考えてもそうだと思う方と反対の結果が(世の中的に)出ることばっかりで、「自分たちって何?」ということが多いので、これもまた少数意見なのかもしれませんな(笑)。
いやもう本当に、そうなのよ。
びっくりするくらい。…それが友人同士ならわかるんですけどさ、仕事先とかでもそうなのよ。FBとかでやり取りしている特定遠方の人々とかでもそうなんだって。……おーい、どうなってんだ>私たち(笑)。驚きます。
・・・
さて、一日前のアーティクル(実は書いたのは2/3~4)で、『復活篇』の音楽について「あれは何だ?」と書きました。その続きです。
「ヤマトの音楽なら何でもいい!! あれは素晴らしい、絶対!」と思ってらっしゃる方は、たぶん、お読みにならない方がよいと思います。そうされることを、お勧め申し上げます。
↓
↓
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私だけそう思ってたかなーと思いましたが、回り親しい人何人かと話をしたら、みぃんなそうだった。
最近、(選挙なんかでもそうなんだけどさ)周りの人たちと「そうだよねーそうだよねー」と納得しあって、どう考えてもそうだと思う方と反対の結果が(世の中的に)出ることばっかりで、「自分たちって何?」ということが多いので、これもまた少数意見なのかもしれませんな(笑)。
いやもう本当に、そうなのよ。
びっくりするくらい。…それが友人同士ならわかるんですけどさ、仕事先とかでもそうなのよ。FBとかでやり取りしている特定遠方の人々とかでもそうなんだって。……おーい、どうなってんだ>私たち(笑)。驚きます。
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さて、一日前のアーティクル(実は書いたのは2/3~4)で、『復活篇』の音楽について「あれは何だ?」と書きました。その続きです。
「ヤマトの音楽なら何でもいい!! あれは素晴らしい、絶対!」と思ってらっしゃる方は、たぶん、お読みにならない方がよいと思います。そうされることを、お勧め申し上げます。
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5.ヤマトの音楽ならいいのか!?
まず、どなたも感じられたでしょうが。「最初から最後まで、違和感が無かった」。
はい……BGMを変えただけで、「ヤマトの世界」になっちゃったんですね、しかも。「復活篇」の世界ではなく、寸分たがわぬ30年前の世界に。
音響監督のTさんという方は、ほんとうに優れた方で、とても尊敬申し上げています。だから最大限「ヤマトらしく」作られたのだと思います。
しかし。
そういう問題ではない。
多くのファンが、あの作品が上映されたあと、音楽に不満を持ったに違いありません。だからこうなったんでしょう。
もちろんN崎Pは、作る時点で不満だった(たぶん)。何故なら、頼りにすべく音楽を生み出す相手が、お二人とも亡くなってしまわれた。だから後継に、その新アレンジ版を託し、さらには、それを超える(唯一の)可能性のあるクラシック音楽を選んだ。……究極の選択だったと思います。
でもね。『復活篇』は、そうやって作られたはずだった。
だからね。
「DC版」になって、その試行錯誤・努力は無駄だったと烙印されたわけだ。
最もわかりやすい例でいくと。
違和感が強かった2場面。「ヤマト発進」のシーンの感動の薄さと、「敵susが赤い宇宙の霧の中に、どどーん!と現れたシーン」のインパクトの無さでした。
ピアノ協奏曲を使えばいい、といっているわけではないのです。ベートーヴェンだから、グリーグだからよいというわけじゃなく、同様の意味で、ヤマトの音楽だったら良いんじゃなかろう!
ピアノを消したと同様に、アルフィーの音楽も存在感の薄いものにされてしまった。
ヤマト世界では、【敵の存在】というのは非常に重要。存在理由、地球侵攻の理由、戦う理由、民族の性質。
宮川・羽田世界では、【それのそれぞれに固有の音楽があった】。作曲家がアイデアを振り絞り、それぞれについて、独自の楽器と音律を生み出し、その結果、名作といわれるBGMとテーマが多く、出来上がったはずでした。
『復活篇』世界では、敵の音楽というのは、(私にとって)あのピアノ協奏曲ですわ。そのように絵も付けられて、尺も構成されていたから、がくーん、という衝撃とともに、あの映像がある。
善し悪しではありません。
ピアノという楽器の非人間的な部分が、(これは「銀河英雄伝説」でショパンのピアノ曲がやわらかい心情描写に使われていたのと対照的ですね)あれにとても合っていた。Y山さんもそう弾いていたと思うし、オーケストラも指揮者の意図に沿って、そう演奏していたはずです。その贅沢な音作りがあってこその、深さはあったはずだった。
そんなことがわからなくても、そういうものは、映像を見れば、伝わってくる。(少なくとも私には。…とまぁ何人かはそうだったようです)
・・・
私は宮川さんやヤマトの音楽で、半分くらい人生変えられた人間です。(…作曲の才能さえあれば、そのまま、そっちの道へ行っていたでしょう。)
だから、オリジナルの元の音楽と、それを生み出した彼らと、ヤマトの音楽を、好きとか愛しているというような言葉では表現できないくらい深く、自分とかかわっていると思っています。
ですから、めったに聴きませんし、流しっぱなしにすることもありません。
その汎用性も認めますし、ファンの人たちを引き込む力の大きさも理解しているつもりです。
だけどね。
作品には、そこに適合した音というのがあると思いますよ。
「同じならいいのか」
これは、私には理解できない。
本当に作品の元のオリジナルや、その世界を大事にするなら、ノスタルジーに浸るのは違うと感じます。それは何も生み出さない。(あぁ、出来たものを受け手がどう評価するかは別問題。「こっちがいい」という人も、当然居るもんね。私はそうは思わなかっただけで)
以前、「ヤマト」では別の例で、がっかりしたことがあります。
大友さんの指揮での東京交響楽団の演奏会。ヤマトの交響曲を演奏した時に、その中にスキャットが入る。Kさんという非常に若く、素晴らしいソリストがそれを歌った。ただ彼女の声は「リリコ」という、空気を包括したような、やわらかい伸びのある声をしていた。川島さんが以前歌った、細く通るような「ハイ・ソプラノ」とは、そもそも声の質が違うのです。
これが本当に素晴らしく、これまで出てきたどなたよりも良いと思い、指揮者もそう仰って絶賛していた。
ところがどうやら(あとから知ったのですが)、「イメージが違う」ということで、ネットなどで相当叩かれたそうですね。・・・なんなんだそれは!?
音楽は基本的に、即興演奏でない限りは再現芸術ですよ。再現芸術というのは、元あったものを今に蘇らせて、コピーすればいいというものではない。現代の流行、スタイル、空気、またそこまでに進化したもの、などを取り入れて、今のものを作っていかなければならない。そんなのは当然のことで、素晴らしければいい、と私は思う。
CDがありDVDがあり。
例えば今回再販されたBOXで、昔のままの音が聴ける。時を越えて今、残っているものがある。それはそれで素晴らしい。何度でも再生して聴けばいいじゃないですか。だが今、生きている者たちが現在と未来に向けて、何を発進するんだ? 音楽というのは人の営みそのものであり、希望のはずです。たとえBGMでも、それをしたから、「ヤマト」はすごかった。
・・・
今回の作り方は、「復活篇」におけるオリジナル色を消したかったように思える。
音楽の面において、特に。
昔の音源を利用した。
復活篇本編において、どれだけの注意を払って、その音が作られたか、いろいろなところから聴いた。それをすべて、否定した仕儀。
そんなに気に入らなかったんだ、、、へぇ。
そんな感じ。
これをもってしても、「復活篇・全否定!」やったね。…って感じですかね。
加えて、「ヤマトって、音楽をアレにするだけで、違和感なくヤマトになる」これが最初に感じた感想。これが多くの人は心地よかったんだろう。私は怒ったけどね。
何度めかに言うけど。
ヤマトは、あの音楽がなかったら私はこんなにハマっていない。だからこそ、それじゃいけなかった。
・・・
余談だけれど、「2199」には期待している。
世の中の人が、そこに“宮川の音楽”を求めるとしても、ミヤガワでありながら、それを超えるものを。彼自身のオリジナルを。そこに「新しいヤマト」を。もしかしたら音楽が生み出せるかもしれないから。
オヤジを引き継ぎ、さらにそれを取り入れながら超える。それを期待してるんだろう、周りも、ご自身も。引き受けられたからには、目算もあるに違いないし。オヤジの持っていなかった才能だって、ものすごくたくさん持っている方だからこそ、「次の」ヤマト・オリジナルを生み出して欲しいと思う。新たな声と、新たな脚本(ほん)と、新たな画(え)で。
6.神の視点
最後になるけど前のアーティクルで少し書いたことの補足。
部分部分を継ぎ足すと、全体を見る目はどうしても弱くなる。
部分の濃度の違いがどうしても気になって、「書き起こし部分」など意識してなかったのに、ほとんどがわかってしまった、、、という状態です。
本気で再構成・再構築するとすれば、そんなディレクターズカット版を作るよりは、新たに作った方が楽というほどの作業になるんじゃないのだろうか。
私はアニメの製作現場のことはわからないけれども、その、“神の視点”は誰が持っていたのだろう?
背骨の通らない物語。どこへ向かうんでしょうね。……第二部、第三部が作られない限り、古代進や乗組員たちも、ヤマトも救われないとすれば、作られるのがよいのかもしれないが、この調子でいくのなら、「ヤマトの無い世界」へ逃げてしまいたいくらいだ(作られれば見ずにはいられず、それで正常な精神状態でいられる自信はない)。
せめて、「物語を作ることのプロ」集団が、練りに練った脚本で作る(どっかの作品みたいだけど・笑)ようにしてくださいよ。“代行”が作画のかたわら、できる話じゃなかろうと思います。
『Space Battleshipヤマト』は素晴らしかった。比較するものじゃないと思うけど、あれが救い。
それと、私は『復活篇』が嫌いじゃありませんし、あれを「ヤマト」だと思っていきます。
・・・
ファンのたわごとですし、誰が、どう感じようと自由な代わりに、感想として、何書いてもよかろう(^_^)。
さて、これ本当にアップするのかな>自分 いつ、上げようかな。(2012-2/5)
まず、どなたも感じられたでしょうが。「最初から最後まで、違和感が無かった」。
はい……BGMを変えただけで、「ヤマトの世界」になっちゃったんですね、しかも。「復活篇」の世界ではなく、寸分たがわぬ30年前の世界に。
音響監督のTさんという方は、ほんとうに優れた方で、とても尊敬申し上げています。だから最大限「ヤマトらしく」作られたのだと思います。
しかし。
そういう問題ではない。
多くのファンが、あの作品が上映されたあと、音楽に不満を持ったに違いありません。だからこうなったんでしょう。
もちろんN崎Pは、作る時点で不満だった(たぶん)。何故なら、頼りにすべく音楽を生み出す相手が、お二人とも亡くなってしまわれた。だから後継に、その新アレンジ版を託し、さらには、それを超える(唯一の)可能性のあるクラシック音楽を選んだ。……究極の選択だったと思います。
でもね。『復活篇』は、そうやって作られたはずだった。
だからね。
「DC版」になって、その試行錯誤・努力は無駄だったと烙印されたわけだ。
最もわかりやすい例でいくと。
違和感が強かった2場面。「ヤマト発進」のシーンの感動の薄さと、「敵susが赤い宇宙の霧の中に、どどーん!と現れたシーン」のインパクトの無さでした。
ピアノ協奏曲を使えばいい、といっているわけではないのです。ベートーヴェンだから、グリーグだからよいというわけじゃなく、同様の意味で、ヤマトの音楽だったら良いんじゃなかろう!
ピアノを消したと同様に、アルフィーの音楽も存在感の薄いものにされてしまった。
ヤマト世界では、【敵の存在】というのは非常に重要。存在理由、地球侵攻の理由、戦う理由、民族の性質。
宮川・羽田世界では、【それのそれぞれに固有の音楽があった】。作曲家がアイデアを振り絞り、それぞれについて、独自の楽器と音律を生み出し、その結果、名作といわれるBGMとテーマが多く、出来上がったはずでした。
『復活篇』世界では、敵の音楽というのは、(私にとって)あのピアノ協奏曲ですわ。そのように絵も付けられて、尺も構成されていたから、がくーん、という衝撃とともに、あの映像がある。
善し悪しではありません。
ピアノという楽器の非人間的な部分が、(これは「銀河英雄伝説」でショパンのピアノ曲がやわらかい心情描写に使われていたのと対照的ですね)あれにとても合っていた。Y山さんもそう弾いていたと思うし、オーケストラも指揮者の意図に沿って、そう演奏していたはずです。その贅沢な音作りがあってこその、深さはあったはずだった。
そんなことがわからなくても、そういうものは、映像を見れば、伝わってくる。(少なくとも私には。…とまぁ何人かはそうだったようです)
・・・
私は宮川さんやヤマトの音楽で、半分くらい人生変えられた人間です。(…作曲の才能さえあれば、そのまま、そっちの道へ行っていたでしょう。)
だから、オリジナルの元の音楽と、それを生み出した彼らと、ヤマトの音楽を、好きとか愛しているというような言葉では表現できないくらい深く、自分とかかわっていると思っています。
ですから、めったに聴きませんし、流しっぱなしにすることもありません。
その汎用性も認めますし、ファンの人たちを引き込む力の大きさも理解しているつもりです。
だけどね。
作品には、そこに適合した音というのがあると思いますよ。
「同じならいいのか」
これは、私には理解できない。
本当に作品の元のオリジナルや、その世界を大事にするなら、ノスタルジーに浸るのは違うと感じます。それは何も生み出さない。(あぁ、出来たものを受け手がどう評価するかは別問題。「こっちがいい」という人も、当然居るもんね。私はそうは思わなかっただけで)
以前、「ヤマト」では別の例で、がっかりしたことがあります。
大友さんの指揮での東京交響楽団の演奏会。ヤマトの交響曲を演奏した時に、その中にスキャットが入る。Kさんという非常に若く、素晴らしいソリストがそれを歌った。ただ彼女の声は「リリコ」という、空気を包括したような、やわらかい伸びのある声をしていた。川島さんが以前歌った、細く通るような「ハイ・ソプラノ」とは、そもそも声の質が違うのです。
これが本当に素晴らしく、これまで出てきたどなたよりも良いと思い、指揮者もそう仰って絶賛していた。
ところがどうやら(あとから知ったのですが)、「イメージが違う」ということで、ネットなどで相当叩かれたそうですね。・・・なんなんだそれは!?
音楽は基本的に、即興演奏でない限りは再現芸術ですよ。再現芸術というのは、元あったものを今に蘇らせて、コピーすればいいというものではない。現代の流行、スタイル、空気、またそこまでに進化したもの、などを取り入れて、今のものを作っていかなければならない。そんなのは当然のことで、素晴らしければいい、と私は思う。
CDがありDVDがあり。
例えば今回再販されたBOXで、昔のままの音が聴ける。時を越えて今、残っているものがある。それはそれで素晴らしい。何度でも再生して聴けばいいじゃないですか。だが今、生きている者たちが現在と未来に向けて、何を発進するんだ? 音楽というのは人の営みそのものであり、希望のはずです。たとえBGMでも、それをしたから、「ヤマト」はすごかった。
・・・
今回の作り方は、「復活篇」におけるオリジナル色を消したかったように思える。
音楽の面において、特に。
昔の音源を利用した。
復活篇本編において、どれだけの注意を払って、その音が作られたか、いろいろなところから聴いた。それをすべて、否定した仕儀。
そんなに気に入らなかったんだ、、、へぇ。
そんな感じ。
これをもってしても、「復活篇・全否定!」やったね。…って感じですかね。
加えて、「ヤマトって、音楽をアレにするだけで、違和感なくヤマトになる」これが最初に感じた感想。これが多くの人は心地よかったんだろう。私は怒ったけどね。
何度めかに言うけど。
ヤマトは、あの音楽がなかったら私はこんなにハマっていない。だからこそ、それじゃいけなかった。
・・・
余談だけれど、「2199」には期待している。
世の中の人が、そこに“宮川の音楽”を求めるとしても、ミヤガワでありながら、それを超えるものを。彼自身のオリジナルを。そこに「新しいヤマト」を。もしかしたら音楽が生み出せるかもしれないから。
オヤジを引き継ぎ、さらにそれを取り入れながら超える。それを期待してるんだろう、周りも、ご自身も。引き受けられたからには、目算もあるに違いないし。オヤジの持っていなかった才能だって、ものすごくたくさん持っている方だからこそ、「次の」ヤマト・オリジナルを生み出して欲しいと思う。新たな声と、新たな脚本(ほん)と、新たな画(え)で。
6.神の視点
最後になるけど前のアーティクルで少し書いたことの補足。
部分部分を継ぎ足すと、全体を見る目はどうしても弱くなる。
部分の濃度の違いがどうしても気になって、「書き起こし部分」など意識してなかったのに、ほとんどがわかってしまった、、、という状態です。
本気で再構成・再構築するとすれば、そんなディレクターズカット版を作るよりは、新たに作った方が楽というほどの作業になるんじゃないのだろうか。
私はアニメの製作現場のことはわからないけれども、その、“神の視点”は誰が持っていたのだろう?
背骨の通らない物語。どこへ向かうんでしょうね。……第二部、第三部が作られない限り、古代進や乗組員たちも、ヤマトも救われないとすれば、作られるのがよいのかもしれないが、この調子でいくのなら、「ヤマトの無い世界」へ逃げてしまいたいくらいだ(作られれば見ずにはいられず、それで正常な精神状態でいられる自信はない)。
せめて、「物語を作ることのプロ」集団が、練りに練った脚本で作る(どっかの作品みたいだけど・笑)ようにしてくださいよ。“代行”が作画のかたわら、できる話じゃなかろうと思います。
『Space Battleshipヤマト』は素晴らしかった。比較するものじゃないと思うけど、あれが救い。
それと、私は『復活篇』が嫌いじゃありませんし、あれを「ヤマト」だと思っていきます。
・・・
ファンのたわごとですし、誰が、どう感じようと自由な代わりに、感想として、何書いてもよかろう(^_^)。
さて、これ本当にアップするのかな>自分 いつ、上げようかな。(2012-2/5)