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2012_06
02
(Sat)12:04

沈黙の証人

 伯父が亡くなった。享年、おそらく90代半ば。

 ここ数年は行き来も無くなり、病に倒れたことも知らなかった。
 最後に会ったとき、少し足を引きずっていて、室内で歩くのも結構不自由だと笑っていたが、特に日常生活の他の面では不自由はなく、食べることも話すことも、普通に元気だった。
 上京した両親・妹と一緒に行ったけれども、義理の妹である母以外は、誰が誰かはあまりはっきりしなかったようだったが、頭ははっきりしていて、いつもの優しくて明るい伯父だった。
 子どもの頃から、訪ねるたびに話したことや遊んで貰ったことはよく覚えていたらしく、話すうちに私と妹を等分に見て、懐かしそうにしてくれた。

 今朝早く、実家から電話がかかってきて知ったが、両親ともその僅か15分前に知ったばかりで、葬儀も済み、香典その他も不要、とのことである。…これについての賛否はあるだろうが、わが親族一同はそういう方針が主流なのだから仕方が無いともいえる(一瞬、呆然としたが)。親族が全国にばらばらに点在していることもあり、親の代の横のつながりは強い代わりに、そういう付き合い方をしてきたのだから我々世代がどうこういう筋合いでもない。
 だから従兄弟同士は、生まれてこの数十年に至るまで、各人、少ない人で1度、多い人でも3度くらいしか互いに会ったことがない。子どものころ、祖父母の家に集まることがあれば仲良く遊びもしたが、現在は若い方で40代後半、上の人間になると60代も後半になる(両親とも末っ子なのだ。しかも長子と親子ほども年が離れている)従兄弟たちと、あまり“親戚”というつきあいはない。

                      ・・・

 だが私と伯父・叔母とのつながりは、周りが理解しているのとは少し違うと思う。
 精神的なものなのかもしれないが。
 
 東京に出てきた30年前。私の大学は入学・入寮の条件として近県に住む保証人というものが必要だった。母と叔母は仲の良い姉妹で、当然そこに頼み、私も最初の2年、寮住まいをしている頃はよくこの夫妻の家に遊びに行ったのだ。東京が珍しかったこともあるし、礼儀もあり(<そういうことにはわりとうるさい家だったのよ)、伯父叔母の人柄と美味しい手料理、また年の離れた従兄弟たちがとうに独立していて2人住まいだったこともある。

 伯父と叔母は25と17で結婚した。昔、よくあったように写真だけの結婚式で、女学校を卒業してそのまま嫁いだ。その経緯は知らないが、伯父はそのまま出征したときいている。
 当時の写真を見せて貰ったことがあるが、美男美女で今でも脳裏に描けるほど印象的だった。
 そうなのだ。わが親族の中で、伯父は唯一の第二次大戦の戦役経験者だった。

 伯父は、陸軍中野学校出身のエリート士官だった。
 けっして自慢話はしなかったが、近代史に興味があった私が水を向けると、そういう話を訊きたがる若い娘が珍しかったのか、ぽつりぽつりと、日常生活(<軍隊のそれを“日常”というのかどうかは別として)について話をしてくれた。私は20代前半は徹底した戦争忌避者で、話をすることすら厭う人間だったため、興味深く拝聴しながらも、実際にどうだったかという話に踏み込むことは一切なかった。が、伯父が淡々と話すことの裏に見え隠れするものを想像するのは難しくなかった。
 少しの酒に酔ってご機嫌になった時は、ちょいと鬱陶しかったりもするが、おそらく若い頃は相当にモテただろう伯父は、いつでもチャーミングで、そうして叔母をとても大切にしていたことは常に言葉にしていた。

 私がこの夫妻に敬意を持っていたのは、そのことではない。
 終戦の前後、彼は中佐だった。大陸へ渡り、「行軍で一日に××km歩いた」などという話や、実際の地名が出てくると、戦記に詳しい人ならどの作戦に従軍したのかわかるのかもしれない。
 戦後、当然のように戦犯の裁判、佐官の公職追放があったとはいえ、伯父は黙々とそれに従い、それからは定年まで一労働者として現場で過ごした。それを何も言わずに叔母も支えた。

 贅沢もさせてやれず、叔母には申し訳ないことをした…と言ったことがある。
 だが自分は戦争に行き、人として人に言えないことをした。公務だったとはいえ、許されるべきではない。…そう言って、偉くなることも、あちらこちからの引きも断り続け(おそらく)、単純労働の労働者として一生を贖罪に生きることを決めていたようだった。

 伯父の同期や近い先輩後輩(同じ隊とからしい)が、現在の自衛隊を作ったのだそうだ。
 そうやって“国を守る”仕組みを作ること、再びあの悲劇を繰り返さない仕組みを作ることについての思いはあったようだが、ついに参加はしなかった。
 私はそのあたりは詳しくないが、具体的に名前の出た何人かは、(さすがに今は退官されているだろうが)陸自のトップグループの一部だったと思う。その誘いも断り続け、市井に身を潜めるように生きた。生涯それを続ける、というのはどのような気持ちだったろう。

 私の「戦争」というものに対する考え方も時間が経つにつれ変化し、忌避するだけではどうにもならないこともわかってきたし、もっと知らなければならないこと、社会的背景、さらには常にそれは現代との検証が必要なことだと現在は考えている。
 10年ほど経って、歴史の生き証人としての彼に話を聞きたいという思いが増した頃。行き来しにくい状況が発生した。その間に伯父たちは引っ越してしまい、少し行きにくい場所になった。10年以上が経ち、再会したのが最後になってしまった。
 
 チャーミングでユーモアのセンスのある伯父だった。
 叔母もまた笑顔の耐えない人で、その家に訪ねると明るい気持ちになれた。
 穏やかに沈黙していた伯父が、酒を飲むと時々亡くした仲間や部下たちのことを話して涙を浮かべることがあった。私たちにそれを見せまいとして泣き笑いだったけど、そして私や叔母がすぐに話を逸らしてしまうので。もっとじっくり訊いてあげればよかったと思うが、20代前半の私には、その余裕は無かったのだ。

 伯父の生き方は見事だったと思う。
 一人残された叔母もきっと、元気に生きるのだろうが、仲の良すぎる夫婦というのは残された方も心配だ。いとこ3兄弟妹の誰かと暮らすのかな?

 追悼の意を込め、記しておく。

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