音と時間の中にいて。
いつの頃からか、きっぱり此処を「ヤマトのblog」にしようと思った時期があって、コンサートの情報とかその他、書かなくなってしまったのだが、実はそっち方面を書くとアクセスが上がる、なんていう時期もありました。
最近は、「ヤマトの音楽プロジェクト」が二つ、同時並行で動かしていたのと、『2199』の映画で、ヤマパ以来、ぶっとばし続けてきた感じで、あまり、此処に書くこともなかったんですが。
ネットの時間を減らすと、実生活でできることは増える。
ウェッブを運営していた頃よりもずっと、やらなければならないことが多くて、ネットの中でやりたいことも放りっぱなしの部分がある。メールをいただいたり励ましていただくことで、進められるということは、とても嬉しいことなんだけど。
この間、合宿に行ったという話を書いた。
ヤマトをオーケストラで演奏しようなんて無謀なことを考えた。
それと同時に、“ヤマトの音楽を演奏するバンド”を、ようやくスタートしたんだけど、先般、ようやくバンマスと打合せが出来て、なんとか8月後半には音あわせできそうな雰囲気になってきた。
なにせ皆、40代。超絶忙しい。それなのに、オーケストラもやってるわ、飲みも積極的だはで、要するにアクティブな人は、いつも何かやっているのだ。時間があるかないか、というのとはあんまり関係ないのだろうと思う。でもまぁ最近、特に思うのは、そういう活動を続けられたり、友人の広がりを持てるか、というのは、家族やツレアイの考え方、というのが大変に大きい。
私の周りは、わりと似たような考え方の人が多いので、子どもが居ようが(交代に子守したり、預けたりし合って)自分たちでも遊びに行くし、飲んで帰るし、異性の友だちもいるし、が当たり前だと思っていたんだけど、まだまだ日本はそうでもないらしい。。。っていまさら思うんだな。家族が自由な時間と、自分の世界を持てて、それで素敵なら皆、平和で嬉しいと思うんだが、違うんだろうか。よくわからない。
アマチュア・オーケストラにいる人たち、というのは特にそうしないと続けられないし、必然そういう人たちが多いからなぁ。ファン活動とかサークル活動の場合は、そういうセオリーが無いから見えにくくて難しいのかも。
・・・
ここのところ、何故、慌てていろんなことを(しんどいのに)やっているか、というと。
ふと気づいたんですね。
「あと何年、楽器弾けるんだろう?」……。
楽器を弾くだけなら、できると思う。家でぴろぴろ弾いていればよろしい。
だけど、演奏をするっていうことは、仲間が居て、聴いてくれる人もいて、一緒に楽しむ人々がいることだ。
音楽というのはある種のコミュニケーションなので。それを伝えるために、上手くなりたいと思うし、美しく演奏したいと思う。楽曲そのものの美しさがもちろん一番なのだけれどもね。
ヴァイオリンが弾きたくて弾きたくて。泣きたくなるくらい弾きたくて。そんな気持ちで20代で楽器を始めた。
ヤマトの音楽が演奏したくてしたくて。気が狂いそうになるくらい切なくて。……どうやらそんな想いをした人が、何人も、本当に何人もいたみたいだ。
絵が描ける人が羨ましかった。それなら「そっち」へ行けばいい。そうした人たちが今、『2199』を作っている。あるいは、同人作家をやっている。それもよい。
だけど、「演奏したい!」とひとりで騒いだところで、何もできない。せいぜいピアノにコピーして、自己満足に浸るしかなかった。だけど、それは偽者なんだよねぇ。
それと同様に、webに書いたヤマトの物語をきっかけに、大切な何人もを得て、またさよならもして、そうして見ず知らずのはずの人とメールのやり取りをして、何かを共有する。それもまた、失いたくないと思うほどの、宝の想いだった。……一緒に演奏することに比べると、多分に片思いっぽいですけどね。
楽器を演奏することも、ヤマトを演奏することも。
切実に求めるものの切なさは、恋する気持ちに似ている。もちろん、もっと深くて根源的なものだ。
あるいはマーラーに求めるもの。あるいは人によってはワーグナーだったり、ショスタコーヴィチだったりする。モーツァルトの人もいるかもしれない。魅せられる、というよりは、憑かれるのだ。
そうして、どれだけの人が、音楽という魔物に魅入られ、演奏しているのだろうと思う。
その幸運に預かりながら、時間も足りず、満足いくまで突詰めることも、いまはできない。
しかし、本当に刹那。一期一会だ。
90年代に知り合い、共にわかちあった演奏仲間たちは、今でも貴重な財産だけれども、この先、自分の指を見て、身体を考えたときに、いったい何年弾けるのだろうか、とふと考える。
そう思うと、一瞬たりとも無駄にはできないのではないか。
たいていはしんどいだけーの練習も、時折訪れる、至福の瞬間。それを知っているからこそ。
そんな風に思うわけです。
身体が動かなくなる、というだけではないです。音楽は、本当に死ぬまでできるものだし、逆にやっていれば健康でもいられ、老化を防ぐにも役立つ。
だけど、食うや食わず、家もまともなところに住んでいない、ではできないことも確か。若い頃ならそれでもなんとかなるだろうけれども、この先、例えば仕事がなくなってご飯が食べられなくなったら(サラリーマンでもないし、誰か稼いで来てくれる人がいるわけでもないので、十分あり得る話)、演奏どころではないはず。
年々、仕事を得るのは厳しくなっていく。そんな中で、いつ、弾けなくなるか、なんて本当にわからない。
そんなことを、シューマンの交響曲を弾きながら、ふと考えてしまった昨日だったのです。
最近は、「ヤマトの音楽プロジェクト」が二つ、同時並行で動かしていたのと、『2199』の映画で、ヤマパ以来、ぶっとばし続けてきた感じで、あまり、此処に書くこともなかったんですが。
ネットの時間を減らすと、実生活でできることは増える。
ウェッブを運営していた頃よりもずっと、やらなければならないことが多くて、ネットの中でやりたいことも放りっぱなしの部分がある。メールをいただいたり励ましていただくことで、進められるということは、とても嬉しいことなんだけど。
この間、合宿に行ったという話を書いた。
ヤマトをオーケストラで演奏しようなんて無謀なことを考えた。
それと同時に、“ヤマトの音楽を演奏するバンド”を、ようやくスタートしたんだけど、先般、ようやくバンマスと打合せが出来て、なんとか8月後半には音あわせできそうな雰囲気になってきた。
なにせ皆、40代。超絶忙しい。それなのに、オーケストラもやってるわ、飲みも積極的だはで、要するにアクティブな人は、いつも何かやっているのだ。時間があるかないか、というのとはあんまり関係ないのだろうと思う。でもまぁ最近、特に思うのは、そういう活動を続けられたり、友人の広がりを持てるか、というのは、家族やツレアイの考え方、というのが大変に大きい。
私の周りは、わりと似たような考え方の人が多いので、子どもが居ようが(交代に子守したり、預けたりし合って)自分たちでも遊びに行くし、飲んで帰るし、異性の友だちもいるし、が当たり前だと思っていたんだけど、まだまだ日本はそうでもないらしい。。。っていまさら思うんだな。家族が自由な時間と、自分の世界を持てて、それで素敵なら皆、平和で嬉しいと思うんだが、違うんだろうか。よくわからない。
アマチュア・オーケストラにいる人たち、というのは特にそうしないと続けられないし、必然そういう人たちが多いからなぁ。ファン活動とかサークル活動の場合は、そういうセオリーが無いから見えにくくて難しいのかも。
・・・
ここのところ、何故、慌てていろんなことを(しんどいのに)やっているか、というと。
ふと気づいたんですね。
「あと何年、楽器弾けるんだろう?」……。
楽器を弾くだけなら、できると思う。家でぴろぴろ弾いていればよろしい。
だけど、演奏をするっていうことは、仲間が居て、聴いてくれる人もいて、一緒に楽しむ人々がいることだ。
音楽というのはある種のコミュニケーションなので。それを伝えるために、上手くなりたいと思うし、美しく演奏したいと思う。楽曲そのものの美しさがもちろん一番なのだけれどもね。
ヴァイオリンが弾きたくて弾きたくて。泣きたくなるくらい弾きたくて。そんな気持ちで20代で楽器を始めた。
ヤマトの音楽が演奏したくてしたくて。気が狂いそうになるくらい切なくて。……どうやらそんな想いをした人が、何人も、本当に何人もいたみたいだ。
絵が描ける人が羨ましかった。それなら「そっち」へ行けばいい。そうした人たちが今、『2199』を作っている。あるいは、同人作家をやっている。それもよい。
だけど、「演奏したい!」とひとりで騒いだところで、何もできない。せいぜいピアノにコピーして、自己満足に浸るしかなかった。だけど、それは偽者なんだよねぇ。
それと同様に、webに書いたヤマトの物語をきっかけに、大切な何人もを得て、またさよならもして、そうして見ず知らずのはずの人とメールのやり取りをして、何かを共有する。それもまた、失いたくないと思うほどの、宝の想いだった。……一緒に演奏することに比べると、多分に片思いっぽいですけどね。
楽器を演奏することも、ヤマトを演奏することも。
切実に求めるものの切なさは、恋する気持ちに似ている。もちろん、もっと深くて根源的なものだ。
あるいはマーラーに求めるもの。あるいは人によってはワーグナーだったり、ショスタコーヴィチだったりする。モーツァルトの人もいるかもしれない。魅せられる、というよりは、憑かれるのだ。
そうして、どれだけの人が、音楽という魔物に魅入られ、演奏しているのだろうと思う。
その幸運に預かりながら、時間も足りず、満足いくまで突詰めることも、いまはできない。
しかし、本当に刹那。一期一会だ。
90年代に知り合い、共にわかちあった演奏仲間たちは、今でも貴重な財産だけれども、この先、自分の指を見て、身体を考えたときに、いったい何年弾けるのだろうか、とふと考える。
そう思うと、一瞬たりとも無駄にはできないのではないか。
たいていはしんどいだけーの練習も、時折訪れる、至福の瞬間。それを知っているからこそ。
そんな風に思うわけです。
身体が動かなくなる、というだけではないです。音楽は、本当に死ぬまでできるものだし、逆にやっていれば健康でもいられ、老化を防ぐにも役立つ。
だけど、食うや食わず、家もまともなところに住んでいない、ではできないことも確か。若い頃ならそれでもなんとかなるだろうけれども、この先、例えば仕事がなくなってご飯が食べられなくなったら(サラリーマンでもないし、誰か稼いで来てくれる人がいるわけでもないので、十分あり得る話)、演奏どころではないはず。
年々、仕事を得るのは厳しくなっていく。そんな中で、いつ、弾けなくなるか、なんて本当にわからない。
そんなことを、シューマンの交響曲を弾きながら、ふと考えてしまった昨日だったのです。