贅沢なコンサート:本編
コンサートはサントリーホールの大ホールで行なわれた。
37階に居たメンバーは客層で席が分かれているらしい。われわれはおとなしく、勿体無いくらいのお席に収まる。
ともかくも出てくるメンバーが皆、実力派として著名な人ばかりなのだ。
ヴィヴィアン・ハグナー、レイ・チェン、セルゲイ・ハチャトリャン、有希=マヌエラ・ヤンケ(以上、ヴァイオリン)、石坂団十郎(チェロ)と、東京クァルテットのメンバー。
なんとも贅沢な9人。
至宝の音楽を聴かせていただいた。
中でも、モシェコフスキーのヴァイオリン二重奏(+ピアノ=江口玲)と、最後のメンデルスゾーンの八十奏は印象深かった。ツレは、石坂くんとレイ・チェンのラヴェルのチェロとヴァイオリンのためのドッペるソナタが気に入ったらしい。
楽器というものは、高いものを持てばいいというものではない。
だけど品質は値段に比例することも確かで、値段は価値に比例することも確か。
だけども、肝心なのは、へぼな弾き手に高価な(最高の)楽器は、“ネコに小判”だということだ。
弾き手を選ぶ。。。そういった意味では、馬に似ているかもしれない。(戦国時代の中国や日本、中世のヨーロッパなどでは)立派な馬は一つの城に匹敵する財産だといわれるけれども、乗り手を選ぶんだそうな。
財産でありながら道具。自分の身体の一部、分身でありながらパートナー。それも似ている。
だから、ストラディヴァリウスなら良いわけじゃない。グァルネリウスが合う人もいれば、グァダニーニの人もいる。それに、力を引き出せない能力の人だっているわけで、この日揃った人々の演奏が素晴らしかったのは、そういった意味でも、楽器と弾き手が相乗効果で音楽のある面を、作り出す能力をもった人たちの集まりだったからだ。すごいなー、どれだけなんだよ。と思う。
誰に聴いても、日々楽器と会話しながら、楽器と対峙もしながら演奏活動を続けている。
すとらどすとらど、と騒ぐのは実はあまり好きじゃないんだけれども。そんな風に思って聴くと、そういった意味でこそ、“宝”なんだと思うんだよ。
・・・
さて、ここで少し話が変わります。
楽器は、宝であり、財産であるのと同時に、弾かれてなんぼ! 道具であり、音楽をすることで命を吹き込まれる。また、そのために存在していると思うのです。
だからさー>某ドイツの空港。
楽器、返せっての。演奏家にとってはそれは命も同然、手足も同然なんですから。しかも、自分の骨身を削って買った楽器だっての。だれが「骨董品としての価値もあり1億円」だぁ!? 勝手に決めないでほしい。
ちなみに音楽家たちやその周辺の人々の間では、渡航をする時に、あの事件以来、フランクフルト経由を避けるようになっている。信頼できない・・・それが理由。こういうことがあって、ドイツは良識ある世界の恥をかいている(いや、某大阪市長なら、この“空港職員”の態度に大賛成するかもしれない、、、日本もそんな国になる可能性がある)。
月末のイタリア出張も、通常の経由路線を変えた。私はフランクフルトという町が好きだし、できれば夕方町へ出て川のほとりを散歩したいなども思ってみたが、今回はアムス経由にした。これだけあそこ贔屓の私でもこうなるわけですね。
年末年始に飛ぼうと思っているが、これもドイツは避けるだろう。私だけじゃない、周り中でそういう動きが起こっている。……世界は狭く、住み難くなるんだろうか?
37階に居たメンバーは客層で席が分かれているらしい。われわれはおとなしく、勿体無いくらいのお席に収まる。
ともかくも出てくるメンバーが皆、実力派として著名な人ばかりなのだ。
ヴィヴィアン・ハグナー、レイ・チェン、セルゲイ・ハチャトリャン、有希=マヌエラ・ヤンケ(以上、ヴァイオリン)、石坂団十郎(チェロ)と、東京クァルテットのメンバー。
なんとも贅沢な9人。
至宝の音楽を聴かせていただいた。
中でも、モシェコフスキーのヴァイオリン二重奏(+ピアノ=江口玲)と、最後のメンデルスゾーンの八十奏は印象深かった。ツレは、石坂くんとレイ・チェンのラヴェルのチェロとヴァイオリンのためのドッペるソナタが気に入ったらしい。
楽器というものは、高いものを持てばいいというものではない。
だけど品質は値段に比例することも確かで、値段は価値に比例することも確か。
だけども、肝心なのは、へぼな弾き手に高価な(最高の)楽器は、“ネコに小判”だということだ。
弾き手を選ぶ。。。そういった意味では、馬に似ているかもしれない。(戦国時代の中国や日本、中世のヨーロッパなどでは)立派な馬は一つの城に匹敵する財産だといわれるけれども、乗り手を選ぶんだそうな。
財産でありながら道具。自分の身体の一部、分身でありながらパートナー。それも似ている。
だから、ストラディヴァリウスなら良いわけじゃない。グァルネリウスが合う人もいれば、グァダニーニの人もいる。それに、力を引き出せない能力の人だっているわけで、この日揃った人々の演奏が素晴らしかったのは、そういった意味でも、楽器と弾き手が相乗効果で音楽のある面を、作り出す能力をもった人たちの集まりだったからだ。すごいなー、どれだけなんだよ。と思う。
誰に聴いても、日々楽器と会話しながら、楽器と対峙もしながら演奏活動を続けている。
すとらどすとらど、と騒ぐのは実はあまり好きじゃないんだけれども。そんな風に思って聴くと、そういった意味でこそ、“宝”なんだと思うんだよ。
・・・
さて、ここで少し話が変わります。
楽器は、宝であり、財産であるのと同時に、弾かれてなんぼ! 道具であり、音楽をすることで命を吹き込まれる。また、そのために存在していると思うのです。
だからさー>某ドイツの空港。
楽器、返せっての。演奏家にとってはそれは命も同然、手足も同然なんですから。しかも、自分の骨身を削って買った楽器だっての。だれが「骨董品としての価値もあり1億円」だぁ!? 勝手に決めないでほしい。
ちなみに音楽家たちやその周辺の人々の間では、渡航をする時に、あの事件以来、フランクフルト経由を避けるようになっている。信頼できない・・・それが理由。こういうことがあって、ドイツは良識ある世界の恥をかいている(いや、某大阪市長なら、この“空港職員”の態度に大賛成するかもしれない、、、日本もそんな国になる可能性がある)。
月末のイタリア出張も、通常の経由路線を変えた。私はフランクフルトという町が好きだし、できれば夕方町へ出て川のほとりを散歩したいなども思ってみたが、今回はアムス経由にした。これだけあそこ贔屓の私でもこうなるわけですね。
年末年始に飛ぼうと思っているが、これもドイツは避けるだろう。私だけじゃない、周り中でそういう動きが起こっている。……世界は狭く、住み難くなるんだろうか?