マーラーの第5番
三日続けてマーラーの交響曲第5番を聴く、という(ちゃんとプロオケで)稀有な体験をした。
休憩時間にホワイエでお客さんの雑談を聴いていると、三日連荘の好事家もいないわけではないらしく、いまさらながら都響-インバルの人気と、読響-セールゲスタムスの注目度を知る。
私しゃまぁ、意識して連続演奏会を聴いたり、都響と読響を聴き比べようなんて不遜な想いを抱いたわけではない。たまたま、日曜日はオシゴトで芸術劇場の舞台裏にお邪魔し、モニタで聴いて、月曜日と火曜日のチケットを持っていたというだけだ。
それでも、インバルの指揮する東京都交響楽団(都響)の“マーラーツィクルス”は凄いもんだし(私は1番と2番しか聴けてないんだけど、3番が素晴らしかったらしい)、セーゲルスタムはまたヘンタイといいますか、物凄い怪演を実直に表現する読売日本交響楽団、とまぁ対照的な演奏を二日続けて聴いたわけだ。しかも同じホールで。
しかしまぁ、東京ってとこは凄いとこだね(>_<)。
昨日の読響はなかなかの名演で、お客さんもものすごく受けてた。終わったあと、楽員さんの一人と飲んだのだけど、彼は私と同じような感想を持ったらしく、わりと冷静。それでも素晴らしい演奏だったことには違いなく、中低弦の響きの豊かさや金管の技術(いまいちデリカシーがなかったけど)なんかは素晴らしい。
ところが本日。
やっぱりすんごいんですよねぇ。
都響の定演の席は、コンサートマスターをほぼ正面に見る位置で、My Best Violinistのコンマス・Yさんが真正面。うふ♪ 彼の美音と、コンサートマスターとしてのアグレッシヴな統率力は、何度見ても聴いても素晴らしい。そうしてそこを中心に集約していく弦楽器、管楽器の名手たちの見事なこと。
う、わ~~、すっげぇ! と声をなくすような動き、そこから立ち上がる爆発を秘めた音。そして深く、なんらかの魂の籠った音は、会場中を満たして、直接、自分に飛び込んでくる。
すごいすごいすごい! と弦楽器の弓と指の動きに目が吸い寄せられ、それが、なんというのですか。マスゲームのように統一されてるんじゃないのっすよ、それぞれが自由でいながら波のように一つの動きを作っていく。その美しさ、というのは凄いですね。
マーラーってのは、とってもヤマトっぽいと思います。
いやまぁショスタコーヴィチの方がさらに【そう】ではあるのですが、、、具体的な引用という風に思ってしまうと、マーラーだと「銀河英雄伝説」など思い出してしまう人々が多そうですが、音の作り・音楽の進行、中に包括している物語(音楽の、ね)なんかはヤマトだなぁと思いながらいつも聴いている。
それに。
コントラバス、超かっこいい! こんなだったっけ??? うわぁ。
何故かNZにいるはずのI松さんが帰国中らしくエキストラで(しかもTuttiで)乗っていて、つい注目して見ちゃいました、上手いもんー(って前列皆さん知っているお顔ばかりなので、みんな、個性的だよなーなんて)。
・・・
ともかく弦楽器の響きが美しく、猛り狂う様が胸に迫って、第一楽章、ぼろぼろ泣きっぱなしでした(普通は第四楽章の有名な「アダージェット」で泣くんだけどなぁ・笑)。あとはわりと聴けたんで、普通に。
管楽器がバリ上手。なんとゆー響きで吹くのですかい。本当に美しいのであります。
ということで、別に読響の方がよくなかったというわけではない。
私は、今日、素晴らしいマーラーの第5が聴けた、というだけ。
明日早起きして映画に行こうかと思っていたけど、やめた。……ちょっとしばらくは消したくないよね、これ。
マーラーの第5は、屈折した曲です。美しく、開放もされるけど、苦しみを抱いている。
クラシックを多用した某『復活篇』で、マーラーが一切出なかったのは、、、不思議といえば不思議ですよね。『ヤマト3』の音楽なんて、モロにマーラーっぽかったわけですし。
だけど、Nプロデューサーの体の中には、チャイコフスキーまで。近代以降の音楽はなかったのだと思うので。何故ならあの方は、音楽をきちんと体験されて学んだ、ジャズにしろクラシックにしろ、生の演奏を聴き、その素晴らしさに打たれ、体験して(つまりけっしてLPやCDだけでなく)知っている方だったから。
彼がクラシックに傾倒していた時代、日本ではまだマーラーはさほど演奏されていなかったからだと思う。これほどまでに(特に今年はブームだけど)頻繁に演奏されるようになったのは、ほんのここ20年ほどの話で、マーラープロジェクトをやる、というのは大変なことだった。そんな風に思ったりもしましたが、余談です。
マーラーのツィクルスはまだ続く。彼は10曲の交響曲を書いているので、後半第6からが、この春からの楽しみだったり。通し券はもう完売だというので、すごいなーと思う今日このごろです。
休憩時間にホワイエでお客さんの雑談を聴いていると、三日連荘の好事家もいないわけではないらしく、いまさらながら都響-インバルの人気と、読響-セールゲスタムスの注目度を知る。
私しゃまぁ、意識して連続演奏会を聴いたり、都響と読響を聴き比べようなんて不遜な想いを抱いたわけではない。たまたま、日曜日はオシゴトで芸術劇場の舞台裏にお邪魔し、モニタで聴いて、月曜日と火曜日のチケットを持っていたというだけだ。
それでも、インバルの指揮する東京都交響楽団(都響)の“マーラーツィクルス”は凄いもんだし(私は1番と2番しか聴けてないんだけど、3番が素晴らしかったらしい)、セーゲルスタムはまたヘンタイといいますか、物凄い怪演を実直に表現する読売日本交響楽団、とまぁ対照的な演奏を二日続けて聴いたわけだ。しかも同じホールで。
しかしまぁ、東京ってとこは凄いとこだね(>_<)。
昨日の読響はなかなかの名演で、お客さんもものすごく受けてた。終わったあと、楽員さんの一人と飲んだのだけど、彼は私と同じような感想を持ったらしく、わりと冷静。それでも素晴らしい演奏だったことには違いなく、中低弦の響きの豊かさや金管の技術(いまいちデリカシーがなかったけど)なんかは素晴らしい。
ところが本日。
やっぱりすんごいんですよねぇ。
都響の定演の席は、コンサートマスターをほぼ正面に見る位置で、My Best Violinistのコンマス・Yさんが真正面。うふ♪ 彼の美音と、コンサートマスターとしてのアグレッシヴな統率力は、何度見ても聴いても素晴らしい。そうしてそこを中心に集約していく弦楽器、管楽器の名手たちの見事なこと。
う、わ~~、すっげぇ! と声をなくすような動き、そこから立ち上がる爆発を秘めた音。そして深く、なんらかの魂の籠った音は、会場中を満たして、直接、自分に飛び込んでくる。
すごいすごいすごい! と弦楽器の弓と指の動きに目が吸い寄せられ、それが、なんというのですか。マスゲームのように統一されてるんじゃないのっすよ、それぞれが自由でいながら波のように一つの動きを作っていく。その美しさ、というのは凄いですね。
マーラーってのは、とってもヤマトっぽいと思います。
いやまぁショスタコーヴィチの方がさらに【そう】ではあるのですが、、、具体的な引用という風に思ってしまうと、マーラーだと「銀河英雄伝説」など思い出してしまう人々が多そうですが、音の作り・音楽の進行、中に包括している物語(音楽の、ね)なんかはヤマトだなぁと思いながらいつも聴いている。
それに。
コントラバス、超かっこいい! こんなだったっけ??? うわぁ。
何故かNZにいるはずのI松さんが帰国中らしくエキストラで(しかもTuttiで)乗っていて、つい注目して見ちゃいました、上手いもんー(って前列皆さん知っているお顔ばかりなので、みんな、個性的だよなーなんて)。
・・・
ともかく弦楽器の響きが美しく、猛り狂う様が胸に迫って、第一楽章、ぼろぼろ泣きっぱなしでした(普通は第四楽章の有名な「アダージェット」で泣くんだけどなぁ・笑)。あとはわりと聴けたんで、普通に。
管楽器がバリ上手。なんとゆー響きで吹くのですかい。本当に美しいのであります。
ということで、別に読響の方がよくなかったというわけではない。
私は、今日、素晴らしいマーラーの第5が聴けた、というだけ。
明日早起きして映画に行こうかと思っていたけど、やめた。……ちょっとしばらくは消したくないよね、これ。
マーラーの第5は、屈折した曲です。美しく、開放もされるけど、苦しみを抱いている。
クラシックを多用した某『復活篇』で、マーラーが一切出なかったのは、、、不思議といえば不思議ですよね。『ヤマト3』の音楽なんて、モロにマーラーっぽかったわけですし。
だけど、Nプロデューサーの体の中には、チャイコフスキーまで。近代以降の音楽はなかったのだと思うので。何故ならあの方は、音楽をきちんと体験されて学んだ、ジャズにしろクラシックにしろ、生の演奏を聴き、その素晴らしさに打たれ、体験して(つまりけっしてLPやCDだけでなく)知っている方だったから。
彼がクラシックに傾倒していた時代、日本ではまだマーラーはさほど演奏されていなかったからだと思う。これほどまでに(特に今年はブームだけど)頻繁に演奏されるようになったのは、ほんのここ20年ほどの話で、マーラープロジェクトをやる、というのは大変なことだった。そんな風に思ったりもしましたが、余談です。
マーラーのツィクルスはまだ続く。彼は10曲の交響曲を書いているので、後半第6からが、この春からの楽しみだったり。通し券はもう完売だというので、すごいなーと思う今日このごろです。