仲間・先輩の訃報
訃報が続く。
三善晃先生の場合は、どこかで予測していながら、どうかそれでも生きていらしてほしい、少しでも私たちの光であってほしいと思い願っていたが、それも叶わず、昨年、その生涯を閉じられた。
それでも、年齢的なものもあり、仕方なかったのかなとも思い、病気の最後はかなりお辛かった様子だったそうなので、それから開放され、安らかに逝かれたことだけを祈った。
それを知ったのは亡くなられた翌日の土曜日で、まだ直接の弟子すじくらいしか知らなかったらしい。お弟子でもある親しい先輩から電話がかかって来、短い時間だが絶句しながらも話さずにはいられなかった。
「お別れの会」があり、音楽業界の関係者が集(つど)った。演奏と音楽で彼を悼んだそうだが、私は行けなかった。だがその先輩から電話があって、改めて喪失の大きさに言葉を失ったといった。その時に、その後渦中の人となる、某偽作曲家S事件の関係者である先輩作曲家に会い(彼も三善先生のお弟子である)、何か言いたげに視線を交わしたという。ゆっくり話を聞けばよかったと言いながら、皆が自分の想いで手いっぱいだったのだろうと思う。
才があり、そしてその影響を受けた人は限りなく、そしてその下からさらに才能を拡げていく人たちがある。彼らは彼を師と仰ぎ、その元を離れても、影響を受けながら生きて、さらに何かを伝えていくのだ。師弟とはそういうものなのだろうと思う。そういうものが伝わらないものは師弟とは呼ばないのだ。
幸いだったのは、私はある時期に接することが出来て、そして私たちに貴重な宝を残してくれた。「地球へのバラード」という珠玉の合唱曲だ。これを作り、初演したのは生涯の宝となった。
・・・
彼はまだいい。
だが、50代というのは人がそんなに簡単に亡くなる年代なのだろうか?
富山敬さんが亡くなった年齢を私は超えてしまったのだが、彼が亡くなったのもその歳だ。
そして、合唱団の先輩が先週、逝った。
MLで訃報が流れ、まさかと絶句したのは私だけではないだろう。
ご家族の希望で送りは限られた人で行った。そうでなければ会場は大変なヒトであふれることになっただろう……そのくらい慕われ、また才溢れる人だった。
合唱団の先輩、、、パートリーダーを務め、聡明で、だけど表面少しおっちょこちょいで、私たち後輩にもとても温かく、頭の良さを感じさせない人だった。
職業・・・小児科医。
訃報を知った全員がおそらくとっさに思ったのは「過労」の二文字ではなかったろうか。死因は心臓麻痺だったからだ。勤務医だった。
実際は、少し前から体調を崩して1年ほど自宅療養をしていたそうだ。……返す返すも、悔しい。
そのメーリングリストが始まった経緯を思い出す。10年になるだろうか? もう1級上の先輩が交通事故で急死した。しかも某省庁の研究室と宿舎のある敷地内で、同僚の運転する飲酒運転の車に轢かれて。幼い子ども2人と妻を残して。
このひとも才溢れる、人望ある人だった。詳細を問合せようとした元の仲間たちが研究室に連絡をすると、部下だったらしい人たちから様子を聞かされ、絶句し、さもありなんと報告してくれた。
彼は、その若さで室長を務めていたが、悲しみで誰もが狼狽し、同僚も部下たちも何も手がつかない状態だったという。研究室の機能は麻痺しています、そう伝えられた。
合唱団時代も慕われたリーダーで、研究の(本業の)才能だけでなく、音楽の才能も豊かに持っていた。指揮者を務め、ピアノを弾き、パートのリーダーを務めた。明るく和やかな人で、子どものようなところがあり、そして一種の天才だった。
時々思い出す。
何故、彼が死ななくてはならなかったのだろう、と。
天は、人として優れた人を愛され、早くに召されるのか? 今回のこともそうだ。研究者として、医師として、世の中に必要とされていた人たちだった。何よりも家族にとって、友人たちにとって、大切な人だ。
・・・
人には亡くなって欲しくない。家族はましてもや、だ。
だが自分はどうか、、、というと、生きたい、と思うのはエゴかなとも思う。我欲でしかない。
40代・50代というのは、死と生の間では中途半端な時代なのかもしれない。
明日死んでも大丈夫、というにはなかなか生きられない。なにせ部屋が汚い(笑)。借金がたくさんあり、そしていまやっていることをクリアにして引き継げる体制が作れていない。
いなくなったら困る、ということを喜んでいるようではダメな人だ。いつもそう思うが、日々に忙殺されて、さほど覚悟できないままに日々を起きて、眠っている。
お別れの会をしよう、と誰ともなく言い出している。……だけどきっと、これから多忙期に入るから、参加できないだろう。それをひきずったまま、また亡くなった人の想いが積み重なる。
合唱団の仲間や室内楽の音楽仲間だけで、何人を見送っただろう? 皆、30代~50代で若くして亡くなっているのだ。悔しかっただろうな、、、と思うから、時々思い出しては、思い出の花に水をやっている。その人と共に演った曲を演奏したり、聴いたりしていると、ふっと顔や声、話した言葉までを思い出すのだ。
時は音の中に封じ込められて、時々、虫干し。それでよいのかもしれないが。
いまはただ哀しみと、悔しさの中に。友といる。
三善晃先生の場合は、どこかで予測していながら、どうかそれでも生きていらしてほしい、少しでも私たちの光であってほしいと思い願っていたが、それも叶わず、昨年、その生涯を閉じられた。
それでも、年齢的なものもあり、仕方なかったのかなとも思い、病気の最後はかなりお辛かった様子だったそうなので、それから開放され、安らかに逝かれたことだけを祈った。
それを知ったのは亡くなられた翌日の土曜日で、まだ直接の弟子すじくらいしか知らなかったらしい。お弟子でもある親しい先輩から電話がかかって来、短い時間だが絶句しながらも話さずにはいられなかった。
「お別れの会」があり、音楽業界の関係者が集(つど)った。演奏と音楽で彼を悼んだそうだが、私は行けなかった。だがその先輩から電話があって、改めて喪失の大きさに言葉を失ったといった。その時に、その後渦中の人となる、某偽作曲家S事件の関係者である先輩作曲家に会い(彼も三善先生のお弟子である)、何か言いたげに視線を交わしたという。ゆっくり話を聞けばよかったと言いながら、皆が自分の想いで手いっぱいだったのだろうと思う。
才があり、そしてその影響を受けた人は限りなく、そしてその下からさらに才能を拡げていく人たちがある。彼らは彼を師と仰ぎ、その元を離れても、影響を受けながら生きて、さらに何かを伝えていくのだ。師弟とはそういうものなのだろうと思う。そういうものが伝わらないものは師弟とは呼ばないのだ。
幸いだったのは、私はある時期に接することが出来て、そして私たちに貴重な宝を残してくれた。「地球へのバラード」という珠玉の合唱曲だ。これを作り、初演したのは生涯の宝となった。
・・・
彼はまだいい。
だが、50代というのは人がそんなに簡単に亡くなる年代なのだろうか?
富山敬さんが亡くなった年齢を私は超えてしまったのだが、彼が亡くなったのもその歳だ。
そして、合唱団の先輩が先週、逝った。
MLで訃報が流れ、まさかと絶句したのは私だけではないだろう。
ご家族の希望で送りは限られた人で行った。そうでなければ会場は大変なヒトであふれることになっただろう……そのくらい慕われ、また才溢れる人だった。
合唱団の先輩、、、パートリーダーを務め、聡明で、だけど表面少しおっちょこちょいで、私たち後輩にもとても温かく、頭の良さを感じさせない人だった。
職業・・・小児科医。
訃報を知った全員がおそらくとっさに思ったのは「過労」の二文字ではなかったろうか。死因は心臓麻痺だったからだ。勤務医だった。
実際は、少し前から体調を崩して1年ほど自宅療養をしていたそうだ。……返す返すも、悔しい。
そのメーリングリストが始まった経緯を思い出す。10年になるだろうか? もう1級上の先輩が交通事故で急死した。しかも某省庁の研究室と宿舎のある敷地内で、同僚の運転する飲酒運転の車に轢かれて。幼い子ども2人と妻を残して。
このひとも才溢れる、人望ある人だった。詳細を問合せようとした元の仲間たちが研究室に連絡をすると、部下だったらしい人たちから様子を聞かされ、絶句し、さもありなんと報告してくれた。
彼は、その若さで室長を務めていたが、悲しみで誰もが狼狽し、同僚も部下たちも何も手がつかない状態だったという。研究室の機能は麻痺しています、そう伝えられた。
合唱団時代も慕われたリーダーで、研究の(本業の)才能だけでなく、音楽の才能も豊かに持っていた。指揮者を務め、ピアノを弾き、パートのリーダーを務めた。明るく和やかな人で、子どものようなところがあり、そして一種の天才だった。
時々思い出す。
何故、彼が死ななくてはならなかったのだろう、と。
天は、人として優れた人を愛され、早くに召されるのか? 今回のこともそうだ。研究者として、医師として、世の中に必要とされていた人たちだった。何よりも家族にとって、友人たちにとって、大切な人だ。
・・・
人には亡くなって欲しくない。家族はましてもや、だ。
だが自分はどうか、、、というと、生きたい、と思うのはエゴかなとも思う。我欲でしかない。
40代・50代というのは、死と生の間では中途半端な時代なのかもしれない。
明日死んでも大丈夫、というにはなかなか生きられない。なにせ部屋が汚い(笑)。借金がたくさんあり、そしていまやっていることをクリアにして引き継げる体制が作れていない。
いなくなったら困る、ということを喜んでいるようではダメな人だ。いつもそう思うが、日々に忙殺されて、さほど覚悟できないままに日々を起きて、眠っている。
お別れの会をしよう、と誰ともなく言い出している。……だけどきっと、これから多忙期に入るから、参加できないだろう。それをひきずったまま、また亡くなった人の想いが積み重なる。
合唱団の仲間や室内楽の音楽仲間だけで、何人を見送っただろう? 皆、30代~50代で若くして亡くなっているのだ。悔しかっただろうな、、、と思うから、時々思い出しては、思い出の花に水をやっている。その人と共に演った曲を演奏したり、聴いたりしていると、ふっと顔や声、話した言葉までを思い出すのだ。
時は音の中に封じ込められて、時々、虫干し。それでよいのかもしれないが。
いまはただ哀しみと、悔しさの中に。友といる。